おしがくノート

「おしえるがっこう」誕生物語

「おしえるがっこう」誕生物語

「おしえるがっこう」は、人の熱い思いと、人の温かい応援のおかげさまで生まれたがっこうです。信じられないような奇跡の連続が、幾重もの偶然が重なり誕生したのです。今、振り返ってみても本当に不思議なことです。

インドで声をかけた「こんばんは!」がルーツ?

出会いやきっかけの記憶をたぐっていくと、世界一周をしていた頃のインドまで遡ります。「こんばんは!」この一言から、おしえるがっこうが始まったのかもしれません。インドのコルカタで出会った、僕によく似たHさん。背丈も体格も髪型も、口ひげや日に焼けた感じまで私にそっくりでした。しかも大学時代まで野球をやっていいたのも同じでした。

Hさんは、新幹線の運転手を辞めて、この春から高校の体育教師になると言いました。実は僕はその真逆で、世界一周の途中に、高校体育教師の退職届を出したばかり。その年の春で高校体育教師を辞める予定の人でした。

つまり、高校体育教師になる人と、辞める人が、インドのコルカタで偶然出会ったということです。さらに詳しく聞いてみると、「高校野球が“やりたくて”体育教師になる」とHさんは言いました。僕は「高校野球を“やりきった”ので体育教師を辞める」と決めていました。とはいっても、高校野球指導者として、才能がないと思っていたからです。日本人がほとんどいない、遠く離れたインドのコルカタの地での不思議な出会いは、今思い出しても鳥肌が立つご縁でした。

そこから、奇跡の連続のような出会いが続きました。Hさんの紹介で出会った方から、カンボジアで孤児院を運営されていたGさん(後のおしえるがっこうの先生)に出会いました。そこから、Nさん(後のおしえるがっこうの先生)につながり、Wさん(後のおしえるがっこうの先生)へとご縁はつながり、Iさん(後のおしえるがっこうの先生)と出会いました。

Wさんが紹介してくれた「経営を学ぶ塾」の講師がIさんでした。起業前の私は、その授業に感動し人生が変わる希望が湧きました。このIさんとの出会いは、その後「おしえるがっこう」が誕生する決定的な瞬間につながるのですが、それまでに数々の「後のおしえるがっこうの先生」と出会わせてくれた、たくさんの「おしえるがっこうの生徒」と出会わせてくれた、一番最初のきっかけは、インドのコルカタでHさんが発した、たった一言の「こんばんは」だったのだと感謝しています。

「お金を払ってでも教えてみたい」という想い

「経営を学ぶ塾」でのIさんとの出会いの後、私は教員を退職し、フリーランスとして活動を始めました。スポーツ指導や教育に関わる仕事がしたいと模索しながら、タンザニアや台湾でスポーツ指導をしたり、スポーツシッターをしたりとスポーツに関することで動き続けました。そのころ実は、「自分はどんなことで喜んでもらえるのか」がわからなくなっていた頃で、自分の人生がこの先どうなっていくのか正直不安でした。

そんなある日、教員同士が集まり、ご飯を一緒に食べながら話をするイベントを私が主催しました。参加者のK先生が「いつか君には学校を作って欲しい」と言ってくれました。その時は、嬉しいなと感じながらも、そのメッセージはしばらく記憶の奥に眠っていましたが、その後ひょんなことからNBさん(後のおしえるがっこうの先生)に話を聞いていただいてるうちに、自分のやりたいことが、記憶の奥から湧き上がってきつつありました。

その頃、たまたま見た新庄剛志さんのプロ野球への挑戦動画。“もう一度プロ野球選手への道 1%の可能性があればI’m Back to Professional Baseball Player at 47 Years Old ”を見ていたら、「あ、学校をつくろう!」とふと思いつきました、その数秒後に物件見学を決め、学校づくりが急展開で始まったのです(笑)。

そして「運命の日」が訪れます。忘れもしない、2019年12月25日のクリスマスの日。Iさん、Wさん、Nさん、Jさんと私の5人が、名古屋のホテルでミーティングをすることになりました。そこで私は「つくろうとしていた学校」について全力でプレゼンテーションをしたのですが、ある一言で大幅な方向転換を余儀なくされました。

「お金を払ってでも、教えてみたい」とWさんが発した言葉を、Iさんが聞き逃さず、「それなら、そうしましょう。逆でいきましょう」と、「先生がお金を払って教える」というアイデアが生まれました。私を除く、そこに集まってくれた人たち皆が盛り上がっていました。

「逆?」「先生がお金を払うの?」と、私の頭の中は、はてなマークが埋め尽くしその時は全く理解できませんでした。ミーティングの後の年末はずっと悶々としながら、一人で悩んでいましたが、「起業経験のない素人の自分の考えだけではきっと上手くいかない」「私が信頼している人たち、私を応援してくれる人たちが信じようとしている方向にかけてみよう」と決意し、「先生がお金を払う」という前代未聞のシステムが生まれたのです。

早速、私は「新しい学校の名前」を100個考えました。その後もIさんにも手伝ってもらいながら追加案開発やブラッシュアップを繰り返して5案に絞られ、もう一度5人でミーティングをしました。名前のプレゼンテーションの時は、満場一致で1案が決定。「まなぶがっこう」ではなく「おしえるがっこう」。逆を貫こうという決意は、こうして「学校の名」としてカタチになったのです。ちなみに私が一生懸命考えた100案は、全部ボツでした(笑)。

「緊急事態宣言」という大ピンチ

名前が決まってからは、「おしえるがっこう」開校へ向けて一気に動き始めました。なんとわずか3か月で学校が誕生したのです。今でも奇跡だと思います。とっても小さな小さなスペースの学校ですが、周りの人たちの数えきれないほどの、温かい応援や協力のおかげで信じられないスピードでできた時は、「人間ってすごいな!みんなで力を合わせるとなんでもできるのかな」と感じることができました。

人生二度目のクラウドファンディング挑戦と平行して、KZさん(後のおしえるがっこうの先生)のDIY指導の元、教室のイスを作りました。ちょうど、日本に招待していた東アフリカ、タンザニアの高校生AくんもDIYに協力してくれました。友人の業者にも協力してもらい壁や入口、内装なども全部みんなで手づくりです。こうして世界一ちいさな、世界一想いのこもった教室ができたのです。

あとは2020年4月2日の開校を待つばかりと思っていた矢先に、新型コロナウィルス感染拡大に伴う緊急事態宣言が発令されました。私はTVを見ない生活でしたので、世の中が大変な状況になっているとはつゆ知らず、開校に向けドタバタと準備する日々を過ごしていました。

「このコロナの状況で開校大丈夫?」と友人からメールがあり、今起きている厳しい現実を知った私は一気に青ざめました。まさに天国から地獄です。「無期限の開校延期」というご助言もあり悩みましたが、「オンラインでも開校させる」と決めました。Zoomを使ったオンライン授業など当然経験は無く、決めたものの不安は拭えませんでした。

しかし、ここまで応援してくださった方たちのことを考えたら「引き下がるわけにはいかない!」と勝手にスイッチが入り、腹をくくって路線変更を決断。2020年4月11日おしえるがっこうをオンラインで開校させました。世界中からたくさんの方がお祝いにかけつけてくれて、未知のオンライン開校は「感動のオンライン開校」となったのです。今思えば、オンラインだったからこそ、あきらめずに立ち向かったからこそ、人に感動や勇気を与えられたのだと思います。逆に、大ピンチが「おしえるがっこう」の大チャンスに変わった日でもあります。

たくさんの奇跡的な出会いや、逆境の中で、この「おしえるがっこう」は産声をあげました。これからもきっと奇跡的なご縁がつながって、またピンチがチャンスに変わって、楽しく生きていくのだと思います。どうか皆様、未来の「おしえるがっこう」物語の登場人物になってください。そして一緒におしえて、一緒にそだって生きましょう。